2022-02-06 劇場のストライキ、戻ってくること
劇場は19区の公共のスペース「104」。
劇場や展示スペース、小さなリハーサルスタジオもある。建物の中心には体育館のように広いフリースペースがあってこちらは無料で、誰でも使うことができる。音楽やダンス、アクロバットの練習をしているひとを見ることができる。
今日は、賃金問題で劇場スタッフがストライキをかけたため、多くの演目が中止。
私が見た演目も照明はなしで地明かりのみ、音響スピーカーも舞台上にどんと置かれているだけ。
つまり、照明や音響の操作なしでは作品として成り立たないものは中止になり、ストライキの状況をアクセプトしたものだけが上演されているというわけ。
何年もかけて今日を迎えた舞台もあるだろうに(現にロックダウンのためこの2年は多くの公演が中止になったり、延期になったりした。延期を重ねてやっと今日本番を迎えられるという作品もあったかもしれない)、ストライキならば仕方がないという納得があるのはフランスらしいなとも思う。(しかし、これについては「そういう権利が認められているフランスは素晴らしい」とは手放しに称賛できない部分もあって、そのことはいつか書くかも)
郁女さんの作品はもともと複雑な照明でもなかったし、地明かりでも見せられる内容であったため上演ができたそう。
たしかに、地明かりであそこまでしっかり引きつけて揺さぶるエネルギーを重ねられるのはすごいと思った。
近年の郁女さんの作品をいくつか観たけれど、とことんそのことについて言う、こちらが目をそらしたりはぐらかしたりすることは許さずにしっかり刮目して観ざるを得ない、純粋に「何故」を追求してくる子どものようにまっすぐ貫いてくる。そのことに自分の芯が揺すられて、その波が広がって、その場を包む。
引力のある作品を作るなあと思う。
とはいえ気になることもあって、激しい感情を高ぶらせて興奮状態のようになるシーンがあったのだが、よくもそこまで開ききることができるなとこちらの胸もわなわなするくらいの慟哭だった。でも終演の挨拶で彼女はその感情を引きずって(なのかどうかは分からないけれどそういう風に見えてしまった)涙を流していた。
それは私のなかの高ぶりをすっと冷めさせるものだった。
上演中、どんな状態になっても出演者は自分の手綱を手放してはいけないと私は思う。実際にキレることを舞台上でするのは、むちゃくちゃやったもの勝ちに通じてしまって、それはたとえその時には通常以上の効果を見せたとしても、その作品全体がどういう技術の上で成り立っていたか、どういう哲学の上で築かれていたかの信用を揺るがすようなことに繋がってしまう(と、私は感じる)。
上演中は通常ならぬものに演者も観客も連れて行かれるかもしれないが、終わったとたんにそれを通常に引き戻すのも作品の仕事だ。プロフェッショナルなダンサーならそれを自分でしなくてはならないし、または演出家がその役割を担うこともあるだろう。
感情をぶちまけたように見えるのに、あんなにタガが外れたように見えたのに、あれはちゃんとコントロールされたものだったのだ、という妙が私は見たいのであって、感情をぶちまけてみた姿を観たいわけではない。
もちろんこれは、自戒を込めて。
(最近は自分でつくったり発表もしていないのに、こんなこと言える立場なのか…という気もする。)
とはいえ、良い作品を見たという感触は否定されない。
2日連続で興味深い舞台を見られてよかったな。2月は幸先がいい。